太郎の著作/TURN OF THE CENTURY
序文
   私と太郎氏は中学以来の付き合いである。探偵小説、プログレッシブ・ロック、そして詰将棋への関心が二人を結び付けたのである。二人の関心は、共通するようでいて、しかし微妙にすれ違ってもいた。彼は「知」的なものに特に興味を示し、一方私は「情」的なものも捨てきれなかった模様である。大学では彼は数学を専攻し、私は哲学を選ぶことになった。
   この二人の傾向は、詰将棋の面にも当初から表れていた。彼はトリックを好み、私は実戦へのこだわりを捨てきれないでいた。そして、彼は当然の如くフェアリーの世界の住人となり、私はいまだ普通詰棋の世界から抜け出せないでいる。
   そんな私ではあるが、近年、数学への関心が高まってきたのを感じる。これは、数学を一種の「冒険」としてとらえるようになったからだ。人間の可能性を拡張し、新しい世界を切り開く「冒険」として。おそらく太郎氏は、早い段階からそのことを自覚していたのだろう。彼の作品は、私の考える「冒険」の最先端を行くものだ。
   その代表作が今回、「神無太郎の20世紀の20題」としてまとめられた。プログレの雄 Yes の曲名を戴く「世紀の曲り角」である。さあ、作者とともに「究極」の世界へ旅立とう。
2000年9月 酒井博久
跋文
   フェアリーには関心はあるとはいえ、専門外のため、「解説」というより「感想」に近いものになってしまった。はっきり言って、ここに集められた作品に対し、賛辞以外の言葉を思いつかないのだ。
   太郎氏の創作姿勢が私に与えた影響は大きい。それを一言で表せば「簡潔主義」ということだが、彼にはまた、簡単には同調できかねる嗜好(?)もある。成駒(不自然成駒に限らない)と非限定に対する嫌悪がそうだ。
   このうち成駒についてはだいぶ前に聞いたことだから、今は変わっているかも知れない。けれど、あるとき拙作に対し「成駒が多いな」と彼が洩らした一言は、今に至るまで私を呪縛している。
   非限定を嫌うのはフェアリストとして当然であろうか。しかし、彼の潔癖さは極端すぎるようにも思える。あまりに手順の唯一性にこだわると表現の豊かさが損なわれるのではという危惧に、彼はこう答える。唯一性を保った方がより豊かな表現世界が生まれると。その厳しさに打たれた私は、今後(旧作を除いて)、非限定を含む作品は一切発表しないと誓うのであった(静岡大会の夜の居酒屋にて)。彼は無理をするなと思っているだろうが。
   閑話休題。今回のこの作品集は、必ずや新世紀への里程標となるであろう。そして彼はこれからも「冒険」を続けることだろう。様々な「夢」を実現するために。
2000年9月 酒井博久

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